ドクダミ草を愛でながら

主な内容は社会、政治、漫画、ネットの気になったニュースやtwitterでの書き込み、日本史で参照しているホームページをtomblooから随時報告していきたいです。
Tue Mar 16

第一に、幾らネットのこちら側が充実したとか、萌えコンテンツが充実したとか言っても、果たして食欲性欲睡眠欲をネットによって相対化し尽くすことが出来るかといったら、そりゃあ無理だと思う。リップサービスなのか、第二次惑星開発委員会 PLANETS Vol.3内の宮台先生は「テクノロジーで何とかなるかも」的発言をなさっているけれども、いくら何でも十数年以内に食欲性欲睡眠欲をネットで代償できるようになるとは私は考えない。十数年先と言ったら、今三十歳の男性オタも立派な中年だ。それでも永遠の思春期をやっていられるだろうか?私個人の危惧としては、レアメタル化石燃料の枯渇や環境問題などによってテクノロジーが十分発展する前段階でホモ・サピエンスはそれこそ「もっと決断主義的な」気分に見舞われるんじゃないかと邪推している*3。十数年後の物質世界を楽観できる人達が、ときに私には羨ましい。

 

 第二に、どれだけインフラが整備されようとも、どれだけ現実逃避の言い訳が不要になろうとも、自己実現の問題や自意識の問題は常に椅子取りゲームにならざるを得ないという世知辛さは残るんではなかろうか*4。現在の日本のインターネット状況がいかに自己実現と自意識の問題に絡めとられているのかをみるにつけても、結局、ネット上で決断主義同士のぶつかりあいが横行するだけなんじゃなかろうか。ネットが非現実で非ネットが現実などという線引きはここでは意味を為さない。ネットも非ネットも、そこに人が群れる限りにおいては娑婆に違いなく、「決断主義的なパワーゲーマーを前に、うずくまるセカイ系プレイヤーは有効な打撃を与えられない」という図式がそこかしこで展開されざるを得ない*5。セカイ系だの引きこもり系だのは、一部のMMOなど、パワーゲーマーが見向きもしなさそうなニッチのなかで万能感に酔っ払い続けるという逃げ道しか確保出来ないんじゃなかろうか。確かに、ニッチに逃げ込むことやニッチをデータベースから構築することはもっともっと簡単になるだろうけど、そのことは当人の一層の現実逃避を促進し、社会と接点を持つ能力を退化させるだろうし、一層狭いニッチへと撤退を繰り返す道でもあろう。そしてどこまで小さなニッチに逃げ込んだとしても、そこが人の群れ集う空間である限り、自意識や自己実現をはじめとする椅子取りゲームで私達はひしめき合うに違いなく、とどのつまり「決断主義」から逃れることは困難だ。より完全に決断主義から逃れるには、最終的には「萌えゲー」などの人のいないスタンドアロンな空間に移行するしかないわけだけど、そのような生き方でさえ現実リソース(資金や住まいなど)を要請し、尚且つ現行のテクノロジーでは食欲性欲睡眠欲や対人関係欲求を代替し得ないことを考えれば、本当の意味でスタンドアロンでいられる人間など娑婆には存在しない。引きこもりの人達の苦悩と娑婆における適応低下を思うにつけても、パワーゲーマーだらけの娑婆からの撤退に次ぐ撤退の末路は、非常に苦しいポジションだけだと思う。

 

 そして第三に、仮に物質的・金銭的コストを減少させることが出来たとしても、時間的・加齢的コストは減少させられないという問題が残存する。娑婆の時間の流れが速くなり、グローバル化・流動化がここまで来てしまった現代において、時間的・加齢的コストを軽視することはどういった結末を当人の適応に招来するだろうか。決断主義的にベストを尽くしてさえ大変なのに、安楽にくるまれて時間的・加齢的コストを浪費していていつまで楽しい時間を過ごせるだろうか?社会の荒波のなかでサバイブできるのだろうか?疲れた時にセカイ系コンテンツを楽しむぐらいならともかく、セカイ系的まどろみを現実への対処より優先させ過ぎて、時間的・加齢的コストを浪費することを私は勧めることが出来ない。時間と加齢は、決断主義者にも現実逃避者にも、オタクにも非オタクにも平等に流れていく。「現実が相対的に軽くなった」なんて口にする人は、「時間までも相対的に軽くなった」とでもお考えだろうか。もしそうお思いなんだとしたら、それこそセカイ系的世界観への逃避であり、長期的には適応を狭小化させる道であると私は断じたい。時間的・加齢的コストはテクノロジーでは安くできないことに注意を喚起したい。

「決断主義」は流行の最先端ではなく、ただ当たり前のことでしかない。 - シロクマの屑籠(汎適所属)